大事なことを決めるとき、人に相談しますよね。僕は相談を受ける側の仕事をしていますから、その気持ちはよく分かります。
ただ、相談することと、決めてもらうことは違います。この境目のことを、お釈迦様は亡くなる前にはっきり言い残していきました。自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)という言葉です。
今日はこの言葉についてお伝えしますぞ。占いを仕事にしている僕が書くのは少し妙ですが、これは「自分を頼りにしなさい」という教えです。
自灯明・法灯明とは
出典は『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』。お釈迦様の最期を伝えるお経です。漢訳では『長阿含経』の「遊行経」に、同じ場面が次のように残っています。
当に自ら熾燃し、法に熾燃して、他に熾燃することなかれ。当に自ら帰依し、法に帰依して、他に帰依することなかれ
『長阿含経』遊行経
熾燃(しねん)とは、燃え立たせるという意味です。自分を燃え立たせ、法を燃え立たせなさい。ほかのものを燃え立たせてはいけない。自分をよりどころにし、法をよりどころにしなさい。ほかのものをよりどころにしてはいけない。
灯明は、あかりのことです。暗い道で手に持っていい灯りは二つだけ。自分と、法。ずいぶん厳しい言い方に聞こえますが、これが最後の教えでした。
どんな場面で言われた言葉なのか
この言葉が説かれたのは、お釈迦様が八十歳、亡くなる少し前のことです。旅の途中の村で重い病にかかり、いったん持ち直したところで、そばにいた弟子のアーナンダに向けて語られました。
アーナンダは長く身のまわりの世話をしてきた人です。師がいなくなったあと、自分たちはどうすればいいのか。その不安を口にした場面での答えが、これでした。
「私を思い出しなさい」でも「次の指導者を立てなさい」でもありません。自分と法を灯りにしなさい、と言った。最後に手放させたのは、師そのものへの頼りかただったことになりますね。
「灯明」なのか、「島」なのか
ここで、少しだけ言葉の話をさせてください。パーリ語の原文では、この部分はアッタディーパ(attadīpā)といいます。ディーパという語には、灯明という意味と、島という意味の両方があるんです。
そのため日本語訳も二通りに分かれました。漢訳は灯りのほうで受け取り、日本では自灯明という言い方が定着しています。一方、パーリ語から訳した中村元先生の訳では「自らを島とし」となっています。
- 灯明として読むと 暗い中で進む先を照らすもの。方向を示す意味あいになります
- 島として読むと 流れの中で足をつけられる場所。流されないための足場になります
- 共通しているのは どちらも外から用意されるものではなく、自分の側にあるということ
- 知っておきたいのは 自灯明は漢訳系の言い方で、パーリ語の原意は島のほうに近いと考えられています
どちらが正しいかは専門の方々の議論があるところですが、僕は両方あっていいと思っています。迷っている人には灯りが要りますし、流されている人には島が要ります。必要なほうを受け取ればいいのではないでしょうか。
自分をよりどころにするのと、自分勝手は違う
ここを取り違えると、この教えは危ないものになります。自灯明だけを取り出すと、「自分がそう思うのだから正しい」という話になってしまうからです。
だからお釈迦様は、必ず法灯明を並べました。自分という灯りは、放っておくと自分の都合のいい形に燃えます。もう一本、法という柱が立っているから、自分をよりどころにしても偏らずにいられる。二つでひと組の教えです。
法というと難しく聞こえますが、身がまえなくて大丈夫です。すべては移り変わるという諸行無常、すべては関わりの中で起きているという縁起、どちらにも寄りすぎない中道。このブログで書いてきたような、確かめられる筋道のことです。自分の気分ではなく、そちらに照らして決める。それが法をよりどころにするということですね。
では、占いは何をしているのか
占い師がこの話を書くのは、正直に言えば都合の悪いことです。頼っていただいたほうが、仕事としては続きますから。
それでも僕は、占いは灯りそのものではなく、灯りを手渡す仕事だと思っています。鑑定でお伝えしているのは、いま何が起きているかの見立てと、選べる道の形です。選ぶのは、いつでもご本人。ここだけは代われませんし、代わってはいけないところだと考えています。
四摂法の記事にも書きましたが、僕は「先生」と呼ばれたくありません。上に立って答えを渡す人ではなく、同じ側に座って一緒に考える人でいたいからです。自灯明の教えは、その理由そのものでもあります。
人に決めてもらった選択は、うまくいかなかったときに人のせいになります。それでは、その人の中に何も残りません。自分で決めた選択なら、外れても次の材料になります。相談していいし、人の話も聞いていい。ただ、最後の一歩だけは自分で置く。そういうことだと受け取っています。
今日からできる三つ
1. 決める前に、理由を一行だけ書く
誰かに言われたからではなく、自分がどう思ってその道を選ぶのか。一行で書けなければ、まだ自分の中で決まっていないということです。書けるまで待って構いません。
2. 人に聞くときは、聞き方を変える
「どうしたらいい?」と聞くと、答えをもらう形になります。「私が見落としていることはある?」と聞くと、材料をもらう形になります。同じ相談でも、決める人がこちらに残るのは後者のほうです。
3. 迷ったら、教えのほうに照らす
気分で決めそうになったときは、法灯明の出番です。この状態はいつまでも続かない、この選択は誰との関わりを生むのか、これは寄りすぎていないか。三つ当ててみると、だいたい輪郭が出てきます。
やらないほうがいいこと
この教えも、行きすぎると別のものになります。気をつけたいのは次の三つです。
一つ目は、誰の話も聞かないと決めてしまうことです。自灯明は、人を遠ざける教えではありません。お釈迦様自身、法を伝えるために四十五年かけて歩き続けた方です。聞くことと、預けてしまうことは別のものですね。
二つ目は、自分を灯りにすることと、自分を責めることを混ぜてしまうことです。うまくいかなかったときに全部を自分のせいにするのは、自灯明ではありません。縁起の話のとおり、物事は自分ひとりの力では起きていないからです。
三つ目は、疲れきっているときに大きな決断をすることです。灯りも、油が切れていれば暗くなります。眠れない日が続いているときや、気持ちがひどく沈んでいるときは、決めるのを先に延ばしてください。それでもつらさが長く続くようなら、専門の方に相談することも考えてみてくださいね。
まとめ
自灯明・法灯明について、大事なところをまとめます。
- 自灯明・法灯明は『大般涅槃経』に伝わる、お釈迦様が亡くなる前に弟子へ残した言葉です
- 灯りにしていいのは二つだけ。自分と、法。ほかのものをよりどころにしない、と説かれています
- 島という読み方もあります。パーリ語のディーパには灯明と島の両方の意味があり、原意は島に近いとされます
- 自分勝手とは違います。法という二本目の柱があるから、自分をよりどころにしても偏りません
- 相談していい。ただ、最後の一歩だけは自分で置く。それが自灯明の受け取り方です
二千五百年前、いなくなる側の人が、残される人に手渡したのがこの言葉でした。あなたには、もう灯りがある。そう言われているのだと思います。
一緒に開運をめざしていきましょう!
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