先日、SNSであるものを見かけました。
「悟りを開く」って、結局どういう状態なのか。
これについて、とても分かりやすく説明している投稿だったんです。占い師という、人の運命や状態を「見立てる」仕事をしている僕にとって、これがなかなか他人事に思えませんでした。
今日はこの話をきっかけに、「見立てる側」の人間だからこそ気づいたことを書いていきますぞ。
そもそも、悟りってどんな状態?
その投稿によると、悟りとは一行でこう説明できるそうです。
「自分という実体が無いことを、体で分かってる状態」
誤解されやすいのですが、悟りを開いたからといって、光が見えたり超能力が使えたりするわけではありません。腹は減るし、眠くもなる。外から見たら、悟る前とまったく同じ普通の人です。
変わるのは、状態ではなく「立ち位置」なんです。
悟りは「映画館の座席」に似ている
これが、僕が一番なるほどと思った例えです。
普段の僕たちは、人生という映画のスクリーンの中にいます。嫌なことが起きる → 巻き込まれる → 「俺がつらい」になる。この流れです。
でも悟りが進むと、観客席に移るんですね。
悲しいシーンを見て泣くことはあります。感情はちゃんと動きます。でも、スクリーンに向かって殴りかかったりはしない。
起きてる。でも、巻き込まれてはいない。
これが「立ち位置が変わる」ということです。
「見てる自分」も、実は存在しない
ここが面白いところなんですが、観客席に座って「見てる自分」を探しても、それすら見つからないそうです。
- 体は自分か? → 細胞は入れ替わる
- 考えは自分か? → 勝手に湧いて消える
- 性格は自分か? → 去年と違う
- 記憶は自分か? → 書き換わってる
芯は、どこにもない。
これだけ聞くと、なんだか寂しい話に思えるかもしれません。でも同時に、こうも言えるんです。
「芯が無い=外との境目も無い」
食べたものが、体になる。聞いた言葉が、考えになる。会った人が、性格を作る。固定された「自分」は無い。だから、傷つく本体も無い。傷はつく。でも、受け取る中心がない。
矛盾しているようで、実は同じことを裏表で言っているだけなんです。
知識と体感は、まったくの別物
この話には、もう一つ大事なポイントがあります。
「なるほど」と思っただけなら、それはまだ知識。理解してる自分がまだ残っています。体感として入ると、理解する側そのものがいなくなる。
泳ぎ方の説明を100回読んでも、泳げるようにはなりません。泳げる人は、説明できなくていいんです。
だから、この記事を読んで「なるほど」と思っても、それだけでは何も変わりません。近づく方法は、実は1つしかないそうです。
気づく。
考え事してる自分に、気づく。イラついてる自分に、気づく。スマホをスクロールしてる自分に、気づく。それだけでいいんですぞ。
チクさんの実体験
実は僕自身も、悟りにつながると言われる瞑想に挑戦したことがあります。
正直に言うと、最初は「座って呼吸を数えるだけで、何が変わるんだ」というくらいの気持ちでした。
でも続けているうちに、はっきり気づいたことがありました。
自分の心が、今どんなことでいっぱいになっているのか。
そして自分は、何に対してこんなに一生懸命考え込んでいるのか。
それを静かに見つめる「内観(ないかん)」という作業。
これが、悟りに近づくうえでとても大事なんだと気づかされました。
考え事をしているとき、僕たちはその考えに完全に飲み込まれています。
でも一歩引いて「あ、今の自分はこれについて考えているな」と眺めてみる。
それだけで、不思議と心が少し軽くなるんです。
この記事で書いた「観客席に座る」という感覚。
あれを頭ではなく体で分かったのは、瞑想をやってみたときが初めてでした。
まとめ
今日は、SNSで見かけた「悟り」についての投稿をきっかけに書いてみました。ポイントをまとめますね。
- 悟りとは、「自分という実体が無い」と体で分かっている状態
- 変わるのは状態ではなく、出来事との立ち位置
- 起きたことに巻き込まれずに、見ている感覚
- 「見てる自分」すら固定された実体ではない
- 知識ではなく体感。近づく方法は「気づく」ことだけ
占いも、ある意味では「見立てる」仕事ですね。でも、見立てることに頼りすぎると、逆に自分の立ち位置を見失ってしまう。
大事なのは、当たった外れたに一喜一憂することではなくて、
「今の自分はこういう状態なんだな」と、一歩引いて眺められること。
占いは、その観客席に座るための道具のひとつだと僕は思っています。
一緒に開運をめざしていきましょう!

まずは「考え事してるな」と気づくところから、で十分ですよ。
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