言われた一言が、何時間たっても頭から離れない。もう終わったことなのに、思い出すたびにまた腹が立つ。そんなふうに、怒りが自分の中でくすぶり続けることがありますよね。
しかも困ったことに、怒っている自分のことも好きになれない。怒りは、相手より先に自分を疲れさせます。
今日は、仏教が怒りをどう見てきたのか、そして怒りの反対側にある慈悲について書いていきますぞ。我慢して怒らない人になる話ではありません。
仏教は、怒りを「毒」と呼びました
仏教では、人を苦しめる心の働きを三毒と呼びます。貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろかさ)の三つですね。怒りは、そのど真ん中に置かれています。
ここで大事なのは、怒った人が悪い人だと言っているわけではないということです。毒と呼ばれているのは、怒りが自分の内側を焼いてしまうからです。
怒りは熱を持っています。その熱は、まず自分の体と頭を消耗させます。眠れない、食欲が落ちる、他のことが手につかない。相手には何も届いていないのに、こちらだけが削られていく。だから毒なんですね。
ひとくちに怒りといっても、五つに分かれます
仏教の唯識という学派では、心の細かい働きに一つずつ名前をつけています。その中で、怒りに関わるものが五つ挙げられています。
- 忿(ふん) その場でカッと燃え上がる、突発的な怒り
- 恨(こん) 過ぎたことを引きずって、相手を恨み続ける心
- 悩(のう) 思い返しては苦しみ、自分を嫌になっていく心
- 嫉(しつ) 人の幸せや成功を見て、ざわざわしてしまう心
- 害(がい) 相手を傷つけたい、やり返したいと思う心
こうして並べると、自分がどれで苦しんでいるのかが見えてきます。
その場でカッとなる忿は、実はそれほど長くは続きません。時間が経てば熱は下がります。厄介なのは思い出すたびに火をつけ直してしまう恨と悩のほうですね。こちらは、放っておいても消えません。
嫉のように、SNSを見ていて胸がざわつくのも、この仲間に入ります。相手は何もしていないのに苦しくなるので、自分でも理由が分かりにくいのが特徴です。
大事なのは、どれも「よくある心の動き」として、二千年近く前から名前がついているということです。あなただけが心が狭いわけではありません。
怒りを投げ返すと、返ってくるのは自分のほうです
『四十二章経』という、中国に伝わった古いお経に、こんな一節があります。
悪人害賢者。猶仰天而唾。唾不汚天。還汚己身。
四十二章経 第七章
悪意を持った人が誰かを傷つけようとするのは、天に向かって唾を吐くようなものだ。唾は天を汚すことなく、自分の身に落ちてくる。そういう意味です。
怒りをぶつけ返したくなる気持ちは、僕もよく分かります。言われっぱなしは悔しいですし、黙っていると認めたことになる気もしますからね。
ただ、投げ返した怒りは、たいてい相手には刺さりません。刺さるのは、それを握っていた自分の手のほうです。『法句経(ダンマパダ)』の第5偈も、怨みは怨みによっては静まらず、怨みを手放したときにだけ静まる、と伝えています。
慈悲とは、かわいそうと思うことではありません
では怒りの代わりに何を置くのか。そこで出てくるのが慈悲です。
慈悲はひとつの言葉に見えますが、もとは二つに分かれています。
- 慈(じ・マイトリー) 相手に楽を与えたいと願う心。与楽といいます
- 悲(ひ・カルナー) 相手の苦しみを抜きたいと願う心。抜苦といいます
さらにここに二つ足して、四無量心(慈悲喜捨)と呼ばれる四つの心があります。
- 喜(き) 相手が喜んでいることを、一緒に喜べる心
- 捨(しゃ) 好き嫌いで人を分けず、平らに見る心
並べてみると分かりますが、慈悲は「かわいそうに」と見下ろすことではありません。相手にも自分と同じ都合があると認めて、その人が苦しくないほうがいい、と思うところまでです。
相手を好きになる必要も、許す必要もありません。慈悲は感情ではなく、心の向きの話です。
怒りと慈悲は、同じ場所から出てきます
怒りが出るのは、相手に何かを期待していたからです。分かってくれるはずだ、こうしてくれるはずだ。その期待が外れたときに、怒りが立ち上がります。
つまり怒りの下には、たいてい関心があります。どうでもいい人には腹が立ちません。
だとすると、怒りと慈悲は別の場所にあるのではなく、同じ関心の裏と表です。だから怒りを消そうとしなくていい。向きを変えれば足りる、というのが仏教の見方です。
怒りが出たときの3つのこと
とはいえ、腹が立った瞬間に心の向きを変えるのは無理があります。順番があるので、3つに分けてお伝えしますね。
1. まず、名前をつけて少し待つ
「あ、いま怒っているな」と、心の中で言葉にしてください。名前をつけると、怒りと自分のあいだにわずかな距離ができます。
そのうえで、返事をするのを少しだけ遅らせる。すぐに返した言葉は、ほぼ後悔します。ここが一番効きます。
2. 相手の背景を、一つだけ想像する
その人にも、こちらが知らない事情があります。疲れているのかもしれないし、その人自身が誰かに詰められた帰りかもしれません。
納得する必要も、許す必要もありません。「何かあるのかもしれないな」と一つ思い浮かべるだけで十分です。これが悲(抜苦)の入口になります。
3. 自分にも同じ心を向ける
慈悲は、他人だけに向けるものではありません。怒ってしまった自分を責めはじめると、そこからまた別の苦しみが始まります。
腹が立つようなことがあったのだから、腹が立って当たり前です。まず自分に「そりゃ怒るよね」と言ってあげてくださいね。
慈悲の瞑想という、決まったやり方もあります
慈悲を心の向きの話だとお伝えしましたが、それを練習する具体的な方法も伝わっています。慈悲の瞑想と呼ばれるものですね。
唱える順番が決まっているのが特徴で、上座部仏教では次の順で進めます。
- まず自分に向けて
- 次に親しい人に向けて
- そして生きとし生けるものに向けて
- 最後に嫌いな人・自分を嫌っている人に向けて
言葉はシンプルで、「幸せでありますように」「悩み苦しみがなくなりますように」「願いごとが叶えられますように」といったものを、対象を入れ替えながら心の中で唱えていきます。
注目してほしいのは順番です。最初が自分で、嫌いな人がいちばん最後になっています。自分が満たされていないうちに、嫌いな相手の幸せを願うのは無理があるからですね。
全部やろうとしなくて大丈夫です。夜寝る前に、自分に向けた一文だけ唱えてみてください。それだけでも、翌朝の機嫌がずいぶん違います。
やらないほうがいいこと
怒りとの付き合いで、遠回りになりやすいのが次の三つです。
一つ目は、怒らない人になろうとすること。怒りは感情なので、なくすことはできません。目指すところは、怒りに動かされないところまでです。
二つ目は、飲み込んで終わりにすること。抑え込んだ怒りは消えずに残って、関係のない場面で別の形になって出てきます。
三つ目は、許すことを目標にすること。許せる日が来るかどうかは、あとから決まることです。今日は、相手のことを考える時間を短くするだけで十分です。
まとめ
怒りと慈悲について、大事なところをまとめます。
- 仏教は怒り(瞋)を三毒のひとつに数えます。相手より先に自分を焼くから毒です
- 怒りは忿・恨・悩・嫉・害の五つに分かれます。長引くのは恨と悩のほうです
- 怒りを投げ返しても、返ってくるのは自分のほう。天に向かって唾を吐くのと同じです
- 慈は楽を与えたいと願う心、悲は苦しみを抜きたいと願う心。見下ろすことではありません
- 怒りと慈悲は同じ関心の裏と表。消すのではなく、向きを変えれば足ります
- 怒ったら、名前をつけて待つ/相手の背景を一つ想像する/自分にも同じ心を向ける
怒りが出てくるのは、あなたが冷たい人だからではありません。むしろ、そこに関心があるからです。
その熱を相手に投げ返す代わりに、少しだけ向きを変えてみてください。それだけで、ずいぶん過ごしやすくなりますぞ。
一緒に開運をめざしていきましょう!
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怒りそのものとの付き合い方は、こちらでも書いています。
自分の中に敵がいた!?怒りをコントロールするためのコツ もあわせてどうぞ。
三毒のひとつとしての瞋は、こちらで詳しく。
三毒とは?貪・瞋・癡の意味|いちばん厄介なのは三つめです もあわせてどうぞ。
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中道とは?頑張りすぎず、我慢しすぎない生き方|琴の弦のたとえに学ぶ もあわせてどうぞ。
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